藤原政文Private BLOG

~日々の悲喜交々を気まぐれにつづる徒然記~

☆「ホッ!と」したり、「ほっと」する話題を「ホット」に綴ります。

初七日

 私には、父と呼ぶ人が3人います(いました)。

 平成元年に養父が、平成5年に実父が亡くなり、そして、先日18日に義父が亡くなりました。今日は、その義父の初七日でした。

 義父は、父親が戦争で両目が見えなくなり、中学を卒業すると農林業、醤油屋勤めで一家を支えてきました。苦労して、苦労して家を再興しました。

 また、消防団を40年、民生児童委員を30年務めるなど地域に貢献もしてきました。

 「外には優しく、内には厳しい」人でした。民生児童委員を辞めてからも配食ボランティアなどを、2年ほど前まで続けてきました。自分の体調が悪くても「自分が届けないと」と、言って出かけていました。

 また、趣味が「走ること」で、仲間の皆さんといろいろな駅伝、マラソンなどの大会に参加したり、時には、3人娘と一緒に「一畑マラソン」にも参加しました。

 皆さんからも「よく走っとる」と言われていました。

 そんな義父も病には勝てず、3月1日に玄関先で転倒し骨折してしまい入院しました。持病のため手術ができず、これからの介護をどうしようかと相談していましたが、階段から転げ落ちるように容態が悪化し、あっという間に息を引き取りました。

 その日は、義父の母親の命日でもありました。誕生日も命日も母親と同じという不思議な繋がりでした。

 

 私と義父との出会いは、私が消防団に入団した時でした。当時の分団長だった義父をその年の6月から「お父さん」と呼ぶ間柄になりました。

 私の養父が亡くなり私が農作業をすることになりましたが、サラリーマン家庭に育った私は、全くの未経験者、右も左も分からない状態でしたが、義父に教わりながらの農作業でした。ほかにも、私が窮地に陥るといつも助けてくれました。

 一度、引退した市議会議員でしたが、2016年の選挙の際、「お前はやるべきだ」と迷っている私の背中を押してくれたのも義父でした。私の妻は「絶対反対」でしたが、義父の一言で180°方向転換したほど、妻にとっても義父は絶対だったようです。

 

 白装束の上に、義父が大切にしていた国体マーク入りの、「木次走友会」のハチマキ、ランニング、パンツのユニホームを身に着け、苦労人の義父の最後のマラソン、両親や最愛の妻が待つところへスタートしました。

 

 「ありがとうございました」の感謝の言葉しかありません。

 冥福を祈ります。 合掌

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